天台宗
金勝山 金勝寺
konsyozan konsyoji-temple
滋賀県栗東市荒張1394
(山上本坊)tel.077-558-2996
(里坊)tel/fax.077-558-0058
由緒
天平5年(733年)奈良朝の昔、聖武天皇の勅願により、奈良の都(平城京)の東北鬼門を守る国家鎮護の祈願寺として東大寺初代別当良弁僧正が開基しました。
その後、弘仁6年(815年)嵯峨天皇の勅願を受け、興福寺伝灯大法師願安により、大伽藍が建立され、
大菩提寺と称しました。8世紀中頃までに近江の25別院を総括し、法相宗興福寺の山岳仏教道場でもありました。(興福寺官務牒疏)
天長10年(833年)仁明天皇により、鎮護国家の僧侶を育成する官寺である「定額寺」に列せられました。その折の勅願の題字が、金光明最勝王経の金勝陀羅尼品の「金勝」であり、金勝山金勝寺と改称しました。
寛永9年(897年)宇多天皇は、国費支給による学業僧である年分度者試度の太政官符を下賜せされ、菅原道真公が勅命により登山されました。(続日本書紀)
歴代天皇は論旨を下し、仏燈料を施入せしめられました。源頼朝公、義経公、足利尊氏公、義詮公等各武将は下知状を下され当山を保護されました。
天文18年(1549年)火災により全山灰燼に帰します。後奈良天皇は再建の論旨を下され、慶長14年(1599年)時の住職清賢法印は、徳川家康公に謁見し再建を請願しました。漸く希代の霊刹を知り保護を命じましたが時宜を得ず、再建までには至りませんでした。
現在の本堂・二月堂は、約400年前、元禄年間に建立された仮堂のままであり、 排水を考えた山型配石の参道、石垣は延宝2年(1674年)に修復されたものです。
朝に法華を講じ、夕に最勝を演じる声高く、更に日夜法華三昧を奉修し国家の安穏を御祈願しました。
朝廷の祈願所として(毎年正月15日九重の小豆粥の水は当山の清水を加持し、京都御所に持参する古例でありましたが、明治3年の献上物廃止令により途絶えました。)の勤行を怠ることはありませんでしたが、当山は山科毘沙門堂門跡の兼帯となり、廃寺の運命をたどることになります。
明治の政変に至り、仏供田30石、境内山林は上地となり全くの無録の寺とまります。治圓法印は、これを歎き、当時の法令に基づき寺領の一部を金勝村に譲与するという訴願の提起により下戻され、再興の芽が兆し現在にいたります。
諸仏像
本堂内にご安置
御本尊
釈迦牟尼如来坐像
重要文化財
御作 平安期
像高 約2.4m
馬頭観音菩薩立像
御作 平成
像高 約1.3m
不動明王立像
御作 鎌倉期
像高 約1.2m
良弁僧正坐像
御作 安土桃山期
像高 約1.0 m
願安法師坐像
御作 安土桃山期
像高 約1.0 m
二月堂内にご安置
軍荼利明王立像
重要文化財
御作 平安期
像高 約3.6m
虚空蔵堂内にご安置
虚空蔵堂半跏像
重要文化財
御作 平安期
像高 約2.2m
毘沙門天立像
重要文化財
御作 平安期
像高 約2.2m
地蔵菩薩坐像
重要文化財
御作 平安期
像高 約1.8m
仁王門にご安置
仁王像 阿
御作 鎌倉期
像高 約2.4m
仁王像 吽
御作 鎌倉期
像高 約2.4m
狛坂磨崖仏
重要文化財
御作 不明
像高 約8.0m
※ 境内ではなく、狛坂寺廃寺跡に
お祀りしております 。